510回 (2014.8.9

韮 山 紀 行  

田中 弘道 (一遍会 理事)

 

新幹線・三島駅の南東一qほどの所に伊豆・三島大社が鎮座しています。祭られているのは大山祇命で予章記、一遍聖絵にも描かれた寺社です。もともと、三宅島や大島に祭られていたという。予章記には伊豆、備前児島、伊予の大山積神は海童の女・和気姫から生まれた三つ子であるという不思議な物語を伝えています。入り口の鳥居の前に見慣れた「隅切三」の紋がありました。しかし鳥居をくぐり、社殿に進みますと菊紋だけで、「隅切三」の紋は全くありません。巫女さんにお伺いすると、「隅切三」は神紋、菊紋は社紋だという明快な返事が返ってきました。昔々(三世紀頃か)、伊予と伊豆の間に人々の移動があったのでしょうか。今では全く忘れ去られています。

 

伊豆半島は東の天城山、西の達磨山で形作られ、その中央、脊梁に当たる所を天城峠を分水嶺として南から北へ狩野川が流れています。源頼家が幽閉された修善寺は狩野川沿いの山中にあり、さらに一〇qほど下って川が平野部へ流れ出た所が《韮山》、三嶋大社は河口部にあります。又伊豆国は関八州の入り口という地政学的な特殊な位置にあります。韮山が鎌倉時代から幕末にかけて数々の歴史の舞台になったことは、こうした特異な地理的条件が関係したと思います。以下、韮山地区の地名或いは関連する遺跡・遺構は《・・》付で表記します。

 

保元・平治の乱に源義朝は敗死し、御曹司一四歳の頼朝は《伊豆国の蛭ヶ小島》へ流された。今、周囲は畑であるが当時は沼沢地だったと思われる。蛭が小島から南西一・五qには北条氏の発祥の地・《守山》がある。守山は湯築城に電車道、義安寺、上市周辺を加えた程度のエリアである。狩野川は現在、守山のすぐ西を流れているが、かつては東側、すなわち蛭が小島と守山の間を流れていたのではなかろうか。守山には北条氏館跡、頼朝が旗揚げの成功を政子と祈った守山八幡、時政が頼朝の奥州征伐成功を祈って作った願成就院(時政の墓はここにある)、北条氏滅亡後、遺された北条氏の子女の救済、戦いで亡くなった一族の菩提を弔うために造られた円成寺跡などの《守山中世史跡群》がある。頼朝が長女・大姫を儲けたのもこの地であろう。

 

 頼朝は治承四年(1180)8月一五日、守山八幡に平家追討を祈願して挙兵、夜陰、数十騎、山木判官平兼隆を襲い討った。頼朝は二・五q北東にある《山木館》の火煙を望み、悲願達成を政子と悦んだのである。

 

 それから時は流れ室町時代に入る。長禄二年(1458)将軍・義政の命を受けた足利政知は、享徳の乱を起こした古河公方・足利成氏を討伐すべく関東に向かうが、成氏の勢力が強いため鎌倉へ入れず、結局、伊豆堀越に留まってしまった。《堀越御所》である。堀越御所は北条氏館、円成寺の跡地に造られた。堀越御所は三五年後、明応二年(1493)、伊豆に侵入した北条早雲により滅ぼされた。それから後北条氏による関東制覇のドラマが始まるが、北条早雲が生涯、その拠点とした地は《韮山城》である。《山木館》の西南西数百mの所にある。韮山城は天正一八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の時、陥落しその歴史を閉じた。

 

江戸時代を代表する勢力は江川家《重文・江川邸、史跡・韮山役所跡》である。清和源氏の流れをくみ、頼朝の挙兵に応じて参戦し、以来伊豆の豪族として地盤を固めた。その拠点は《韮山山木》である。江戸時代、江川家は伊豆の世襲代官として活躍、その支配地は伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模、伊豆諸島に及んだ。幕末の動乱期に活躍した江川英龍(一八三五年家督を継ぐ。一八五五年享年五五歳)を紹介しよう。天保の改革、ペリー来航、日露交渉などがあった時代である。朋友には斉藤弥九郎、師には渡辺崋山、高島秋帆、弟子には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎、政敵には鳥居耀蔵がいる。沿岸防備のため砲台設置を進言、品川台場を造る。高島秋帆の砲術を学び、砲術伝習所、《国史跡・明治日本の産業革命遺産・韮山反射炉》、の建設、大砲鋳造を行う。兵制改革を進言、《洋式農兵調練》をおこなう(高杉晋作の奇兵隊の一三年前の話である)。《伊豆下田》を襲った津波で沈んだロシア船ディアナ号の代船をロシア人将校の設計により急遽《戸田》で造る。日本最初の洋式帆船ヘタ号である。